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日本橋から未来を開拓する堀留化学株式会社

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『堀留夜話』 〜大江戸物語〜 エピソード

エピソード(Episode5)

『天下泰平への道〜風林火山の信玄と共に〜 』

徳川家康が、戦国最強と言われ孫子四如(通称、風林火山)の軍旗を掲げる武田信玄に大敗した三方ヶ原(みかたがはら)の戦い、その後信玄がもう半年でも長生きして京に上っていたら、同盟者の信長も家来の秀吉も同様に打ち負かされ、家康も良くて一戦国大名で終わっていたかもしれないと・・・しかし史実は、信玄VS信長の直接対決はなく、秀吉による天下統一、そして家康が最終的にこの戦乱を治め天下人となり江戸幕府を開くことになります。

家康は、この三方ヶ原の大敗に学ぶことで成功したと言われています。家康のすごいところは、自分が負けた相手を徹底的に研究し、畏敬の念を持って信玄の優れた考え方や、やり方を真似、更に武田家滅亡後もその遺臣を重用することで天下泰平を導きました。

軍事面では・・・
家康は、自らが大敗した武田軍の兵法を引き継ぐべく、家臣の井伊直政の下に、武田家滅亡後の旧臣達を部隊として付け、武田四天王で最強部隊と言われた山県昌景(やまがたまさかげ)の朱色の軍装を真似させて「井伊の赤備え」とし、その軍団が関ヶ原の戦いでも中心的な働きをして、天下分け目の戦に勝利しました。三方ヶ原の戦いの時に、信玄が家康を浜松城から誘い出して野戦で勝ったように、家康はこの時、石田三成を大垣城から誘い出して関ヶ原の野戦に持ち込み半日で勝利しました。信玄の兵法と部隊を活用して、天下を取ったと言っても過言ではありません。

金融財政面では・・・
戦で勝ってもお金がなければ幕府の体制は維持できません。家康はその財政的基礎を武田家が得意とした金山開発と金融制度で構築しました。信玄は領内で金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山開発の専門家集団を養成し膨大な軍資金を捻出しました。家康はその金山衆を保護しその技術を活用、更に武田家旧臣の大久保長安をその管理監督者とすることで、幕府天領の佐渡島金山を江戸初期において世界最大の金山とし、そこから産出される豊富な金は幕府財政の基盤を作りました。
また江戸幕府の金融制度は、信玄が行った甲州金制度が元になっており、これは戦国期、他の大名が金を重さで価値を計る秤量貨幣にしていたのに対し、信玄が定めた甲州金は、金に打刻された額面で価値を決める日本最初の金貨と言える計数貨幣であり、その甲州金の呼び方であった両(りょう)分(ぶ、1/4両)朱(しゅ、1/4分)は、そのまま江戸時代の貨幣制度に引き継がれ、江戸の金融制度を形作りました。

治水国土開発面・・・
本堀留夜話のエピソード3で述べたように、江戸時代前、今の東京を中心とする地域は、荒川や利根川、渡良瀬川など、複数の河川が並行蛇行を繰り返す低湿地帯で、更に日比谷付近まで海が入り込み、その周辺の多くが海中でした。そんな土地が、河川改修や埋め立てなどの大規模な治水土木工事を行うことで、居住や耕作可能な面積が広がり、百万人都市江戸の土台が出来上がりました。
家康の命を受けて、その治水事業を指揮した中心的な人物が伊奈忠次(いなただつぐ)です。
この伊奈家は、信州伊奈谷の出身で、武田信玄流の治水技術を修得していました。信玄は平地の少ない甲斐の国での領国安定を図るため、甲府盆地で氾濫を繰り返していた釜無川(下流は駿河湾に注ぐ富士川)の治水事業を積極的に行いました。今でも当時の堤防である信玄堤(しんげんづつみ)は水害から地域を守っています。また前述の鉱山開発を担った金山衆の持つ土木技術もこの治水事業に応用されました。
この信玄流の治水技術の考え方は、自然の力に逆らわず、溢れるものは溢れさせ、上手に自然の力を利用して洪水に対処しようとするもので、堤防を連続せず所々に切れ目を入れて洪水を逃す遊水地を作り、そこに溜まった水は通常時灌漑用水として水田などへの水源に利用されました。昔から『河を治める者が国を治める』と言われています。信玄流の技術と人を活用することで家康は江戸を治めることができました。

信玄と家康
戦国最強というカリスマ性を持つ信玄ですが、当時としては珍しく朝からでも頻繁に合議を開いて家臣の意見を聞き、これを参考に難しい状況においても英断を下していました。家康も信玄と同様に合議を好み、良く人の意見を聞いて判断しました。ちなみに、信玄の息子である勝頼が、武田家滅亡のきっかけとなった長篠の戦いの時、合戦前に撤退を強く進言していたのが、前述した井伊の赤備えの元になった最強部隊の将、山県昌景で、勝頼はそれを無視して大敗し、昌景はその戦いで勝頼を逃すために命を落としています。家康はこの戦いの最前線で武田軍と対峙していますので、これらの状況を三方ヶ原の戦いの時の自分とオーバーラップしながら見ていたのではないでしょうか。

信玄も家康も愛した富士山

信長や秀吉のような強烈なリーダーシップで物事を進めるやり方とは対照的な地味な印象の家康ですが信玄と同様に人の意見を聞けた人物で、それゆえに彼らが陥ったような独裁にもならず、江戸の統治においても、自分の後を継ぐ将軍個人の力量の限界を見切った上で、それをカバーする為に複数の実務者トップ(年寄、後の老中)による合議性で政策を進めていく形にし、その結果265年間、徳川将軍家15代にも続く統治が実現しました。このように信玄が他国との戦や領国統治に用いた手法や技術そして人材を、家康はそのまま引き継ぐ形で、江戸時代という世界史でも希な泰平の世を切り開きました。

エピソード(Episode4)


『大江戸・知は力なり〜坂東の大学、天下取りの術〜』

500年以上も前の中世、関東地方が坂東(ばんどう)と呼ばれていた頃、当時日本を訪れたフランシスコ ザビエルら宣教師により「坂東の大学」としてヨーロッパにも紹介され、世界地図に載るほど有名になった学校があります。下野国(しもつけのくに(栃木県))足利にある日本最古の学校、「足利学校」です。

この学校の創建に関しては諸説ありますが、室町時代に足利の領主となり儒教に熱心であった上杉憲実(うえすぎのりざね)が多くの儒教に関する蔵書を寄贈したり、後に庠主(しょうしゅ)と呼ばれる学長を鎌倉の名刹円覚寺から招いたりして学校を再興しました。 この時、初代学長となった快元(かいげん)は、僧侶の身ながら仏教ではなく、あくまで教育は儒学を中心とし、また当時人気があった易学や兵学、薬学など実践的な学問を学べたので全国から三千名とも言われる多くの学生が集まることになり、戦国時代になると、この学校の卒業生が各地の大名や豪族に軍師のように仕えたと言われています。

特に、注目すべきは、第9代校長(庠主)の三要 元佶(さんよう げんきつ)で、当時学校を庇護していた北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされ、学校も衰退して貴重な蔵書が失われようとする危機に徳川家康に仕え、その信任を得て学校を守り通しました。

歴史好きにとって大変興味深いのは、三要が、天下分け目の関ヶ原の戦いにも従軍しており、陣中の占筮(せんぜい)(筮竹(ぜいちく)による占い)にて功績を上げていることです。 元々関ヶ原の戦いは、家康にとって決して万全且つ有利な状況で始めたわけではありません。来るはずの4万人近い主力部隊である息子の秀忠隊が真田親子に阻まれてまだ到着しておらず、兵数的にも戦前の陣形にしても不利で、また諸大名が家康、三成どちらにつくか不明な状況で、如何に野戦が得意な家康であっても不安の極致であったと思われます。そんな時に、三要は占筮し、秀忠隊を待たずとも今この時に戦うのが吉であることを家康に進言したはずで、結果としてわずか1日で家康の勝利が確定し天下を掌中に収めることができました。

想像するに、当時国内第一の総合大学として全国から優秀な人材を集め育てた足利学校、その学長である三要は、全国で活躍しているその卒業生OB達と連絡を取り合い、各大名家の内部情報を得、彼らを通じて家康の運と実力を発信することで味方に取り込み、「天下取り占い」の確度を上げていたのではないかと思うのです。家康も畏怖し戦国一の強さを誇った武田信玄が恐れた足利学校卒の軍師、それもトップの学長からお墨付きを得たことで、自信を持って戦うことができたのだと思います。

この後、三要は家康の側近として更に重用され、江戸幕府の統治体制の確立に大きく活躍しました。そして足利学校は江戸時代を通じて徳川将軍家の厚い庇護を受けることになるのです。まさに知は力なり、坂東の大学、天下取りの術でした。

西洋の古地図

西洋の古地図で亀のような形をした日本(赤丸
の部分)の中に坂東の大学(BanduとAcademia)
の記載があります。
F.ザビエルは、書簡(写真下)の中で「坂東の大
学( アカデミア)あり。日本国中最も大にして最も
有名なり。」と記しています。

足利学校の杏壇門

足利学校の杏壇門より孔子廟を望む。足利学校
には入徳門、学校門、杏壇門、裏門の4つの門
があります。
杏壇(きょうだん)とは、学問を教える所。孔子が
学問を講じた壇のまわりに杏 (あんず) の木が
あったのが由来です。


〜散策メモ〜
足利学校がある足利市には、浅草から東武伊勢崎線
の特急で足利市駅まで約70分、そこからタクシーで初
乗り(720円)で行けます。歩いても20分程、駅からすぐ
に森高千里の歌で有名になった「渡瀬橋」を横手に見
ながら渡瀬川を渡り、散策に楽しい瀟洒な町並みを通
って足利学校に到着します。
すぐ近くには、足利氏一門の氏寺である鑁阿寺
(ばんなじ)があり、その土塁と堀に囲まれた城郭のよ
うな境内には国宝の本堂など貴重な文化財が残って
います。足利学校と合わせて中世の息吹を感じること
ができる場所です。

エピソード(Episode3)


『大江戸・進化 〜400年続く江戸の繁栄を築く〜 』

慶長8年(1603年) 徳川家康が幕府を開き、慶応4年/明治元年(1868年) 江戸城無血開城を経て明治新政府の統治に変り、そして現在に至るまで400年以上、大江戸(東京)は、日本の中心地、そして今は、1000万人以上の人口を抱える世界有数の大都市として繁栄を続けています。

その基盤整備は、天正18年(1590年)、家康が江戸に入府してから城下町を作るのに合わせて本格的に始まりました。それ以前の江戸や周辺地域は、複数の河川が並行蛇行を繰り返す低湿地帯で、更に日比谷付近まで海が入り込み、今の新橋、霞ヶ関、大手町、皇居外苑などの多くが海の中だったそうです。そんな土地が、河川改修や埋め立てなどの大規模な土木工事を行うことで、居住や耕作可能な面積が広がり、現在の大都会東京の原型を作りました。

その中でも特に有名なものが利根川東遷(とうせん)事業です。江戸時代始め、利根川は渡瀬川と並行して東京湾に注いでいました。この大河川を現在のような銚子沖の太平洋に注ぐようにコースを変えて、利根川水系、渡瀬川水系、鬼怒川水系を一つに江戸を度重なる洪水から守り新田開発も進める大治水事業でした。現在の利根川は流域面積(1位)・長さ(2位)の日本最大の川です。

この難事業を家康から命じられたのが伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)でした。この忠次の面白いところは、家康の元から2度も出奔(しゅっぽん)しながら、非常に優れた実務家として家康の信頼を得て国家建設に携わり、この治水事業だけでなく、領民からも慕われる様々な産業振興策等も指揮し、関東全域の実務頭(かしら)として、江戸の経済・財政・国土保全・交通(水運)等の基盤整備に多大な貢献をしました。
なお、この利根川東遷事業は、忠次の代では終わらず、その子、忠治(ただはる)、孫の忠克(ただかつ)と伊奈家代々の監督事業として約60年を経て完成しました。

現在は太平洋(銚子沖)に注ぐ利根川

彼らは、関東全体の地形や土壌、季節毎の天候や河川の水量等を深く観察し、その自然の摂理を学び、開発後のグランドデザインもしっかりと決めて、この難事業を大型重機がない時代に、人の手で成し遂げました。江戸の土木技術水準の高さに驚かされると共に、400年以上も続く江戸の繁栄も、まさにここが原点になっています。

エピソード(Episode2)

『大江戸・化粧事情 〜それは白赤黒の3原色〜』

日本では江戸時代に入ると、経済、文化の繁栄とともに、貴族や武士階級だけではなく庶民も化粧をするようになったそうです。特に、文化文政時代(1804年-1830年)になると江戸の町人文化は最盛期を迎え、化粧を楽しむ文化は、浮世絵や歌舞伎などの流行と合わせて発展しました。

その化粧の特徴は、白粉(おしろい)、紅(べに)、お歯黒(おはぐろ)に代表する白赤黒の3色。紅では日本橋の玉屋や、白粉では京橋の坂本屋 というように看板商品の専門店も出現、また「都風俗化粧伝」(みやこふうぞくけわいでん) というような美容ハウツー本なども出版されるようになりました。

ところで、江戸時代の女性が白粉で求めた白い肌は“色の白いは七難かくす”で、今も女性の憧れであり、口紅もメイクアップの必需品であることは理解できるのですが、お歯黒だけは、幕末明治維新に来日した外国人が驚き、故意に女性を醜くすることで既婚女性の貞節を守らせる悪習だと非難したように、現在の審美観からすると奇怪な風習のように感じます。

お歯黒は、鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に鉄を溶かした溶液を歯に塗布し、五倍子粉(ふしこ)と呼ばれるタンニンを多く含む粉を上塗りすることで、化学反応(酢酸第一鉄がタンニン酸と結合)して黒変し、歯のエナメル質表面に不溶性の皮膜を形成する現象を利用しています。歯科衛生的には、虫歯や歯周病の予防に効果があったそうです。

喜多川歌麿 姿見七人化粧・びん直ししかし筆者が個人的に思うに、酷悪になるだけの風習が単純に流行るものなのかと? お上から奢侈禁止令が出てもその度に工夫し、粋なおしゃれを楽しむ自由を捨てなかった人たちが・・・。そもそも、この時代の行灯(あんどん)は、60ワット電球の50分の1程度の明るさだったそうです。明るいLED灯下で見るものと豆電球位の明るさで見るものと随分印象も違うのではないでしょうか。オーバーな位に白い白粉による肌色も、この明るさではくっきりとして、もしかしたら艶(つや)が出るお歯黒とは、独特な陰影を持って色気がある表情が生まれるのかもしれないと、勝手に想像するところであります。

エピソード(Episode1)


『大江戸・化学事始め〜それは日本橋から始まった』

◎それは日本橋から

時は元禄十一年(1698年)、日本橋の魚問屋に、後の蘭学隆盛の端緒を開くことになる男が生まれた。母は医者の娘で、家業よりも学問に興味を持ち、両親もそれを許して、京都の高名な儒学者、伊藤東涯(いとうとうがい)の元へ師事した。彼は東涯から、社会に役立つ学問の必要性を学び、本草学(ほんぞうがく、薬学・博物学)に興味を持った。そして江戸に戻ると魚屋をたたみ、日本橋に長屋を借りて両親を引き取り、寺子屋を開いて子供達に学問を教えながら貧しいなかでも学究を続けた。

その頃(1732年)、西日本を中心に冷夏や害虫発生により大飢饉が発生、その地域の米の収穫は実に平時の4分の1まで減少し餓死者を約100万人(『徳川実紀』)も出し、翌年は米価が高騰し、江戸でも庶民が困窮して米屋を襲撃する打ち壊しが起こった。
その時の将軍、徳川吉宗は、米価安定に勤めたがうまくいかず、飢饉時の救済作物として既に、西日本の一部で栽培が始まっていたサツマイモに注目した。しかし当代一の学者で前将軍にも重用された新井白石らがサツマイモには毒があるなどと主張してこれを拒んでいた。

この時、一介の町の寺子屋学者であったこの元魚屋の倅(せがれ)は、本草学を通じてサツマイモの有用性を認識しており最善の飢饉救済策であると確信して1735年『蕃薯考』(ばんしょこう、サツマイモ=蕃薯)を記し、江戸町奉行、大岡忠相(おおおかただすけ)に意見書を提出。忠相は、これを取り上げて吉宗に上奏。吉宗は彼に命じて小石川薬園(小石川植物園)や千葉郡馬加村(千葉市幕張)などでサツマイモの試験栽培を行わせた。彼は苦労の末、見事に栽培に成功、サツマイモの有用性を公式に証明した。彼の名は、甘藷(かんしょ)先生、芋神様と呼ばれた青木昆陽(アオキコンヨウ)、この結果を受けて、各地でサツマイモの栽培が普及し、次の天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評されている。

◎蘭学の芽生え

歴史の教科書でも有名な昆陽の事績物語はこの部分までであるが、本題はこの後である。

昆陽は、栽培成功後、幕臣に登用され忠相の配慮で「書物写物御用係」となり、自由に幕府が貯蔵する書籍を読めるようになった。そして寺社奉行となった忠相の元、各地の古文書などの調査を行っていた。その後、学問好きの吉宗が、精緻な挿絵が描かれているオランダ書に興味を持ち、当時、オランダ語の学習は国禁であったが、この法度(はっと)を緩めて、昆陽にオランダ語の習得を命じた。なお吉宗は実学を重視したので、昆陽と出会う前の1720年キリスト教以外のヨーロッパの書物(洋書)の輸入を全面禁止から実用書に限って解禁した。このことでオランダ語書物の学習が解禁されたように記している本等も多数あるが、許可されたのはあくまで漢訳洋書の輸入であった。

書物写物御用係として洋書にも興味を持っていた昆陽は、長崎に留学し、オランダ語を出島の通詞(通訳)から学んだが、それまで読み書き禁止で耳学問であった為に、当然辞書などもなく、苦労しても400語程の習得であった。しかし江戸に戻り、長崎での経験を元に蘭学の実用的な重要性を上に説いて、オランダ語学習の解禁許可を得た。更に幕府の御書物奉行に昇進し、蘭学関係の書物を多く著作したが、彼を理解庇護した吉宗も忠相もこの世にいなく、それらの書物は幕府で活用されることはなかった。ただし、最晩年の彼の弟子に、前野良沢がいた。良沢は医学者の杉田玄白と共に後に有名な『解体新書』の翻訳を行い蘭学隆盛の礎を築いた人物であるが、昆陽は良沢に、彼の志と知識を引継ぎ、こうして蘭学の始祖としての役割を終え72歳で亡くなった。

◎蘭学の隆盛、化学の誕生

いよいよ、日本人を西洋近代化へ導く土台となった蘭学が隆盛を極める時が来る。

杉田玄白・前野良沢から医学とオランダ語を学んだ大槻玄沢(おおつきげんたく:2人の師から一文字ずつ名を得て玄沢とする)が、寛政元年(1789年)私塾・芝蘭堂(しらんどう)を江戸京橋のお堀端で開き、蘭学を発展させる多くの優れた人材を育成した。
その中でも特に英才として知られ「芝蘭堂の四天王筆頭」と呼ばれた宇田川玄真(うだがわげんしん)、彼もその後、私塾・風雲堂をひらき、日本の医学、化学、自然哲学など幅広い分野でその礎を築く人材を輩出していくことになる(福沢諭吉の師である緒方洪庵も弟子の一人)。

その宇田川玄真に才を見出され、14才の時に養子になった宇田川榕菴(うだがわようあん)、彼が初めて西洋の近代化学を書物として日本に紹介した。その書物である『舎密開宗』(せいみかいそう)では、英国の化学者ウィリアム・ヘンリーが出版した『 Elements of Experimental Chemistry 』を原著とし、榕菴が自ら収集・実験した他の知見も加味した内容で、今の私達が使う、酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語は、この本の中で彼によって考案された。

さらに宇田川玄真の流れを汲む川本幸民(かわもとこうみん)が、幕末1860年、ドイツの化学書を翻訳した『化学新書』で、化学を意味する「舎密」(せいみ)(ラテン語系オランダ語 Chemie の音訳)という言葉を中国で使用されていた「化学」と言う言葉に置き換え、ここから「化学」という言葉で、日本にChemistryが広がり、明治維新後の近代化や殖産興業を支えていくのである。

*参考文献:『青木昆陽 傳記・事蹟』青木七男編 等


蘭学の芽生え、隆盛、化学の誕生

‐1720年‐徳川吉宗の享保の改革により、漢訳洋書輸入が一部解禁。
‐1735年‐青木昆陽が『蕃薯考』を上奏。
‐1774年‐杉田玄白・前野良沢らが『解体新書』を刊行。
‐1788年‐大槻玄沢が蘭学の入門書『蘭学階梯』(らんがくかいてい)を刊行。
‐1789年‐大槻玄沢が、江戸、三十間堀川に私塾・芝蘭堂をひらく。
‐1796年‐大槻玄沢の弟子である、稲村三伯が、宇田川玄真らと協力し、
   日本で最初の蘭和辞書『ハルマ和解』を刊行。
‐1837年‐宇田川榕庵が日本最初の化学書『舎密開宗』を刊行。
‐1860年‐川本幸民が『化学新書』を刊行。日本の化学の祖となる。

*明治維新後、日本人が素早く西洋近代化に適応できた大きな理由として、識字率の高さがあげられる。江戸時代には武士だけでなく寺子屋などを通じて、町民、農民までが広く文字の読み書きができ、産業革命後の西洋諸国と比較しても驚くべき程日本の識字率は高かった。それ故に日本全国あちこちに学問好きがいて、その知的好奇心のエネルギーが、全国から人(情報)、物、集まる江戸日本橋界隈に集約し、蘭学などの学問好きのサロンを形成、多くの人材を輩出すると共に、日本の近代科学(化学を含む)を生むことになる。そして今も多くの化学系の商社・メーカーが日本橋界隈に本社を置いて活動している。弊社もその一つである。

日本橋周辺画像
魚河岸記念碑画像
現在の日本橋周辺、その橋のたもとには、江戸の繁栄を支え昆陽も育った魚河岸の記念碑が立っている

日本橋駅入口画像
長崎屋跡の写真看板
新日本橋駅入口には、オランダ商館長が江戸参府時の定宿とした長崎屋があり蘭学交流の場となっていた

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